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いり江豊香園の歴史

因幡町商店街で創業

福岡は九州でも最も活気のある都市のひとつで、福岡市の人口は150万人。

今や博多港には韓国、中国からの観光、お買い物客を乗せた船が毎日の様に横付けされており、商業盛んな消費地でもあります。 その中心の「天神」は戦前、戦後、「因幡町」という地名でした。因幡町の目抜き通りは、因幡町商店街で、福岡県庁、市役所、銀行へと通じる、誰もが知っている通りでした。とても賑わっており、魚屋さん、果物屋さんなどの元気な声が行き交う庶民的な良い通りでした。

いり江豊香園は戦後間もない昭和22年、福岡・天神(旧因幡町商店街北通り)に入江央(なかば)が創業致しました。店舗はわずか15坪ほど。生活用品も食料品もまだ不足していた時代にあって、当時はなかなか手に入らなかった砂糖や菓子類などやロウソク、線香と言った雑貨類を販売するお店でした。当時としては菓子店は大変珍しく、明治、森永、グリコなどのメーカの商品や、外国からの初めて食べるチョコレートやチューインガムなども店頭に並んでいました。クリスマスともなると、ケーキも販売していたので珍しいケーキを求め、我先にと家路を急ぐサラリーマンでいっぱいでした。

戦後28年には祇園山笠が再開。商店街の旦那さん方の「因幡町にも山笠を」との熱い思いで因幡町にも飾り山笠が立ち、田舎から出てきた人々で溢れていました。その頃の博多商人の心意気が感じられ、店先でも酒の仕度がなされ、戦後の復興のきざしとして、福岡市民の心に明るい希望と勇気を与える物でした。「どんたく」と並んで商店街の一大イベントで賑わいました。


創業間もなく、事業拡大の為に母の実家であった八女からをお茶仕入れて販売する事にしました。これが茶舗いり江豊香園の始まりです。上級茶、並茶がと所狭しと品揃え、白折れや玄米茶も庶民、会社の飲み物には欠かせぬ食料品でした。 お店には茶缶がずらっと並び、当時はお茶の粉を篩って袋詰めしていました。

因幡町火災と仮店舗

この福岡市民から親しまれた因幡町商店街も、昭和45年の30店舗にも及ぶ大火災の為、焼失。お客様にご迷惑をかけぬように、焼け跡に電話だけ持ち込んで応対。私の長女が産まれたばかりの3ヶ月でしたが、おんぶして焼け跡に段ボールを敷いて寝かせ、電話に出ていました。当店には大きな番頭さんが2人いて先頭で火事の後始末をしてくれました。一日も休むことなく営業しました。

その後、市役所の近くで現在のイムズの場所に、天神ファイブという仮店舗が共同で建設され、そこで仮営業を始めました。やはり相変わらず、仕事帰りのサラリーマンは政治や歴史の話、OLさん達はお茶を飲みに立ち寄ってくれました。私もお店が縮小で大変なので、住まいであった団地を乳飲み子を背負い、階段を上り下りしてお茶を売って回りました。みなさん同情してくださり、よく売れましたが、荷物を持っては重たかったです。

その頃のお客様が今でもご注文を下さり、お届けさせて頂いております。

祖父は達筆であったので、結納茶の目録などを慣れた手つきで書いてました。お祝い事なので、硯で墨をすって歌を歌い楽しみながら書いていたようです。

この頃は、結納品もどんどん売れていました。品が足らない事もありました。今でも「おたくで結納をして頂きましたよ」と言って頂く事があります。 この頃、店舗が手狭なため舞鶴に外商部を併設し、そちらでも配達業務を始めました。

事務所は、2階建てで倉庫を兼ねており、事務所が1F、倉庫が2Fになっていたため、資材ケースなどを倉庫に運ぶのが大変でした。入江恭子(現在の社長)はこの頃に入社。主に経理業務しました。

子供たちがまだ小さかったので、夏休みなどは事務所に連れてきて遊ばせていました。

喫茶谷間

この間、和食の店や、市内でもまだ風月さん房屋さんくらいしかない時代、珈琲専門店「喫茶谷間」などを続々と開店。谷間は昭和36年に福岡駅の大牟田線が開業した時に、西鉄が名店街味のタウンという25店舗くらいならなる庶民の食堂街にオープンしました。

映画館、スケート場、卓球場などもあるスポーツセンターから地下へ入ったすぐのところに谷間はありました。谷間は純喫茶で、プロのバーテンがカウンター内にいて、コーヒーブームの先駆けで、モカやマンダリンなどコーヒーの常連さんたちといつもコーヒー談議に花が咲いた時代でした。インテリアは山小屋風で、そこでお見合いが行われたり、夕方の恋人たちの待ち合わせ場所に良く使われていました。プロポーズをする人たちさえありました。

この味のタウンから今でも有名なひょうたん寿司さん、因幡うどんさん、牛心さん、夢屋さん、あま太郎さんナイルのカレーさんが育っています。

時代に応じて若者の方達に合わせて改装して「TANIMA」として、当時珍しい全面ガラス貼り、中央に大型テーブルを配置し、席数も大幅に50席に増やしました。今度は明るいオープンな雰囲気で、一人でも入りやすいお店にしました。

営業時間は朝7時半から夜9時半まで正月の元旦と2日だけ休みあとは年中無休でした。またメニューを全面見直しして、若者の好みの食事メニューを追加し、ドリア・グラタンも美味しいと評判を頂きました。大型の布製のネルで15杯立てのコーヒーで、コクを出していました。 その後、サザン通りに移転し、お店の雰囲気をヨーロッパのゴシック調の内装にしました。サイフォンで一杯立てが喜ばれていました。

また店舗は本格ジャズ生演奏のブルーノート福岡の前だったので、その終演のお客様の為に23時まで開けていて夜遅くまで賑わっていました。ウエイトレスは美人の子に恵まれて、接客を担当していました。喫茶谷間は40年間続けたことになります。

ニチイショッピングデパート(現在の天神ビブレ)で営業再開

一方、茶舗いり江豊香園は、仮店舗から天神の現在のビブレのビルを共同で建て、地下2階で営業を再開致しました。

いり江オリジナルのかりがね茶のファンは、何処に移転しても探してでもお求めに来店下さり、感謝・感謝の毎日でした。

高度成長時代でしたので、お茶関連の結納茶や茶道具、茶器なども良く売れていました。 店舗は17.5坪。入って正面の奥には結納茶が飾ってあり、右側にはステンレス製の棚はずらっと並んでました。その扉の中には茶缶が入っており、お客様から注文頂く度に、手際良く茶缶を取り出して、お客様と会話しながら袋詰めしていました。今考えると手間がかかる作業をしていたものです。営業時間は10時から20時でした。お客様のご住所をお書きいただき、ニチイショッピングデパートの売り出しに合わせてDMもこの頃から作成しご案内させて頂いていました。

新茶セールの時には私も「茶娘」に早変わりして、通りがかるお客様に摘みたての美味しい新茶を飲んで頂いていました。高校になった娘たちも絣を着せて「いらっしゃいませ!」と呼び込みを手伝って貰っていました。

昭和57年にニチイショッピングデパートが、若者のファッションビルとしてビブレ21にリニューアルオープンしました。この頃は、趣味として飾り用の小ぶりな急須なども売れました。

また家族でお茶をどんどん飲まれたり、お茶をプレゼントするお客様が増えたため、まとめ買いとして一度に購入される量がかなり多い時代でした。

西鉄名店街へ移転

ニチイショッピングデパートが、若者向けのビブレに変わったため、ビブレを出て西鉄名店街に急きょ移転することになりました。急な移転にも関わらず、西鉄名店街フードタウンに出店した時も、多くのお客様がお店を捜して下さり、お店に戻ってくださいました。

この頃もかりがね茶の需要は伸びる一方で、口コミで市内、更には全国へ広がってまいりました。店舗は7坪くらい。周りは役所や銀行、官公庁が多かったので、一日に4、5回歩いて配達に行くほどでした。この頃には、いり江豊香園は、東区松崎と、南区高宮に支店を出店しておりました。

舞鶴へ移転、いり江ビル

福岡、天神地区の目まぐるしい発展と共に、いり江豊香園も福岡駅の第3次再開発にて移転を余儀なくされ、工場のあった現在の舞鶴2丁目に事業を集約しました。天神茜ビルの2Fで主に宅配、発送業務をしました。

その後、いり江豊香園の本来の姿である、お客様一人一人と笑顔で会話でき、おもてなしすることが出来るお店を作りたい、という思いから、平成19年に自社ビルを建てました。初代から受け継いだ、美味しいお茶づくり、真心を込めた接客、地域の皆様に愛されるお店づくりをこれからも目標に心がけていきたいと思います。

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